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2019年11月5日火曜日
第27回晤学舎仏教講座:古川元也教授
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資料解説
資料解説
「日蓮真蹟遺文紙背文書」にみる鎌倉時代の信仰環境
20191104 晤学舎仏教文化講座 古川元也(日本女子大)
はじめに
千葉県市川市に所在する日蓮宗大本山・中山法華経寺には日蓮聖人がしたためた多くの聖教が残る。その「日蓮真蹟遺文」には料紙の裏面に”紙背文書”があり、当時の信仰環境を非常によく伝えている。
この"紙背文書"を読み解くことで、日蓮が布教した時代の社会や、鎌倉でのさまざまな政治・経済的動態を考えてみたい。「日蓮遺文」や『吾妻鏡』、その他の史料と合わせ読むことにより、当時の信仰生活を明らかにしたい。
1・中山法華経寺と「日蓮真蹟遺文紙背文書」とは
(1)紙背文書の形成と構成
「双紙要文」44通
「天台肝要文」42通
「破禅宗」9通
「秘書」33通
(2)作成の経緯
下総国守護千葉氏一一千葉介執事、富木(因幡国富木郷本貫か、富城・土岐)常忍(胤継)
千葉氏惣領は亀若丸(頼胤)、京都大番役勤仕、閑院内裏西対造営がふりあてられる。伊賀国守護も兼務。
富木氏から日蓮へ
富木氏(若宮住)開基の法華経寺に伝来=富木(富城.土岐)常忍の関与
建長年間から文永初年の成立と推測しうる。
2.紙背文書にみる中世東国社会
中山法華経寺の日蓮真蹟遺文紙背文書には下総守護千葉氏の法廷に提出されたと考えられる訴陳状が多数含まれている=一時的裁判権は部分的に守護に帰属。
文書の当事者は千葉氏の奉行人、千葉氏と被官関係にあった者、当事者の一方か論所が千葉氏との主従
関係、もしくは分国内の統治対象であったもの。
文書に登場する論所は雑務、検断関係にあったもの。そのほか内容的には、所従拘弱惜、負物、沽却田の未進、苅田、身代、下人、抜点札など。
*より日常的であったと思われる雑人沙汰、雑務沙汰は鎌倉幕府訴訟制度上の例外的事項。
→在地性の強い局地的な裁判者の中でおこなわれる。
*下人史料の例では「沙彌常忍申状」、「冠者重吉申状」、「某陳状」、「なかたの住人沙彌しんし入道申状」、「奈摩孫三郎戒状」などがある。その他、大番役、京上役、守護所殿の文言が見られる。
具体事例:「僧信西等連署陳状」
この文書については、石井進氏による包括的な検討がある。石井氏は以下のような論点を提示している。
①「重代の従者」は解放の可能性がなく、「不重代の従者」には解放の可能性がある点。
②「重代の下人」にも実際には解放の可能性があり、主体性もあった。
③ゆえに、連判状が書かれなければならない状況が生み出されているといえる。
【解釈】
僧信西が謹んで申します
早く重代相伝の旨に任せて返してほしいと思います。
下人次郎が先祖相伝の主人をないがしろにし、訴えた訴状を。
事の起こりを話します。
●下人の「重代」性を強調
私の所有物である次郎は、幼少は鏡楽法師といい、成人後は次郎といいます。
父親は秦栄男で同じく次郎と名乗ります。栄男はここ八木に住んでいる利真の「重代の所従」でした。
利真の死後、秦栄男の四人の子供は、当嫡子は利真次男に召し仕えていましたが、いい加減なことばかり云って役立たずでしたので、召し放ちましたところ、後に乞食になったということです。
次男当□郎秦兄部は守真後家と其の息子が召使っています。
当三郎五郎は利真口平太が召し使っています。
当四郎は鏡楽法師のことですが、利真の養子利弘が「相伝」して召し使っていたことは「在地顕然」でその次男の私がこれを譲ってもらったのです。
●鏡楽法師の処遇
生まれてから12になるまで寺に預けました。その間に自分が7~8年在京する機会を得たのですが、鏡楽法師は下人ですから京都では身の回りで使役しました。
去年の春、自分が本国に戻るに際して、一緒に来いと言ったところ、「仰せの通りに致します」などと言いながら六月まで京に残り、他の主人に付いてしまいました。「重代の由緒」を逃れようとして「借金のカタに取られてしまった」などとことをデッチ上げているのはミエミエです。
父親の秦栄男は自分がカタに取られるとは知っていながら弁済することをせず(下人になったのですが、鏡楽法師は其の逆なのです)。栄男が下人になったとは云っても、従者にも恩情を与えたので、物を与えることも多く、下人になる証文なんかは勝手に書きたい人は書けと云うことでした。しかし、(鏡楽法師は其の子供なのですから)借金のカタとしてと言うのではなく、重代だからということで下人にしているのは「在地顕然」です。
●証拠
一つの証拠があります。かつて鏡楽法師が逃散を企てたとき、比叡山の寛賢美濃律師の坊で宮仕えになろうとしたことがありましたが、「重代」の下人と云うことで、一日も匿われることはなく、すぐに返していただきました。これがもし「重代」でなければどうしてこんなことができましょうか。
去る八月に背いて郡守護代の西行御坊の宿所へ逃げ込みました。が、「重代」でない旨を訴えようとしましたが、自分が「重代」である道理をいい、それが至極当然の言い分でしたので、正気な判断者である守護代は□□□と言いました。
●陳状の決まり文句
下人が書いた二通の書状は嘘が多く、「相伝道理」で判決を下すべきです。主人をないがしろにする狼藉は、仮に無実の判決を出せば大変なことになります。色々な案件があるかも知れませんが下人の帰属権は一番大切なことです。このような色々な嘘に対し、正当な判決がなければ、今後下人どもの狼藉は絶えません。もしくは「不重代」を「重代」と言って逃れてしまうでしょう。どうかご不審の点をご判断下さい。「在地連判」の上子細を申し上げます。 (連署略)
【結論】
信西は鏡楽次郎を自分が所有している根拠を「重代」「相伝」であることに求めた。その上で「在地顕然」であることを文中で強調し、実際曙名を集めることで実証した。信西の過失は「相伝」に際して文書を作成しなかったことであり、その欠を補うべく「在地」の署判を求めたのである(もし紛失したので在れば、紛失状の作成もしくは別の手段を講じるであろう)。
このことは当時文書主義が普及してゆく中で、在地の慣行(下人相伝に文書を作成しない)の間隙を京都帰りの下人が衝いたかたちになる。この後の時代に見られる下人売買に関する証文は、たとえ労働力のみの売買といえども細かい取り決めがしるされてゆくこととなる。
3記された鎌倉の様相ー法橋長専書状からー
鎌倉幕府御家人は鎌倉に屋敷を持っていたと考えられている。そこには在鎌倉の代官が常駐し以下のような職掌を持っていた。
a鎌倉からの情報の伝達
b鎌倉での経済行為
c守護訴訟への取り次ぎ
このような文筆官僚に「法橋長専」がいる。長専のものとしては、富木氏あて文書には主人(千葉氏)への披露を乞う文言などがあり、自らの裁判にかかる文書がある。
*「訴状」=「折紙」で宣命体文書→本来日付を持たない。
このような文書に折紙が多く用いられていることについて、かつて笠松宏至は次のように述べている。
「発生期における折紙の本来的な機能の一つは、記憶や音声の代用としての文字であり、「状」とは異なる次元に属するもの」
「ひとしく文字に書かれながら、それは既に「状」ではなく「音声」の代用として、主体も客体も時間もない一片のメモに化し、公的には誰の責任にも属さない紙片となる」
4日蓮が生きた時代の信仰環境
日蓮が立教開宗を志した時期は度重なる天災やその結果としての飢饉に見舞われ、社会・経済的には非常に厳しい時期。
1250年代は自然災害頻発の時代(大風、大火、洪水、大地震)一飢饉の発生「国諌」(1260〈飢餓・疫病・地震、洪水、自界叛逆難、他国侵逼難〉,1271,1274)と「法難」(松葉が谷1260→伊豆、小松原1264、龍口1271一佐渡)により宗教的団結を強化 1260年代は蒙古による朝貢要求→蒙古襲来その時期に宗門の維持をはかるために、結束と、聖教の護持が置文によって固く決意されている。
この時期の史料には、聖教や相続に関係する文書が「皮ノ袋」「キンケラノ袋」「カコノ袋」「ミノフノ袋」「松ノ袋」などに入れられ、札がつけられ保管されていたことがわかる。
おわりに
一般に鎌倉時代の信仰のありかたは聖教や縁起を通じて考察きれることが多いが、ここでは「紙背文謝
という本来では残らない可能性の高い文書を通じてその社会・経済的側面を考察した。
史料残存の制約から日蓮存命時の、鎌倉時代の教団を考える作業は困難なものだが、これらの文書を見
ることによって、教団運営の背後にある地域権力との関係、中央の鎌倉との関係、を垣間見た。
【主要参考文献】
中尾禿『中山法華経寺史料』(吉川弘文館、初版1968年10月、3版1994年11月)
田中稔「侍・凡下考」(「史林』五九巻四号、1976年、のち『鎌倉幕府御家人制度の研究』所収、吉川弘文館、1991年)
笠松宏至「「日付のない訴陳状」考」(初出『論集中世の窓』吉川弘文館、1977年12月、のち『日本中世法史論』所収、東京大学出版会、1979年3月)
石井進『中世を読み解く古文書入門』(東京大学出版会、1990年11月)
石井進「「日蓮遺文紙背文書」の世界」(小川信編『中世古文書の世界』所収、吉川弘文館、1991年7月)
佐々木紀一「法橋長専のこと(上〉(下)」(『国語国文』681・2.1991年、東京大学文学部)
保立・河野真知郎・永井路子(対談)「中世鎌倉の復元一都市のイメージをさぐる一」(『きらめく中世歴史家と語る』有隣堂、1994年)
保立道久「切物と切銭」(『三浦古文化』53.1993年)
『千葉県の歴史』(史料編中世二(県内文書1)1997年3月)
中尾尭『日蓮真蹟遺文と寺院文書』(吉川弘文館、2002年3月)
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大諏訪天満宮で梅花祭【沼朝平成31年3月6日(水)号記事】
大諏訪天満宮で梅花祭
筆塚に献花し古い筆などを焼納供養
「東風(こち)吹かば匂ひ起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」ー梅の花の季節、大諏訪天満宮で先月二十四日、梅花祭が行われた。
学問の神として祭られる菅原道真(菅公)の命日に当たる二月二十五日、京都の北野天満宮で行われる梅花祭は九百年の歴史を持つと言われているが、大諏訪天満宮も江戸時代初頭から四百年近い歴史があるという。
大諏訪天満宮は本門法華宗の吉祥院(佐藤光徳住職)境内にあり、明治時代の廃仏殿
釈(はいぶつきしゃく)の難を逃れて、神仏習合のまま現在に至っている。
このため、菅公の命日の二月二十五日ではなく、宗門の習いとして古くから命日の前日(逮夜)に例祭を開催。近年は、この日に近い日曜日に行っていて、今年は二十四日と日曜日が重なった。
もともと大諏訪では、同院建立以前から地元民に天神信仰があったといい、地元挙げての祭典として今に伝わり、紅白の梅が花を付ける中、老若男女大勢が集まった。
祭典は天満宮堂内での法要の後、境内筆塚への献花に続き佐藤住職らにより、使い古した筆や鉛筆が、かがり火で焼納供養された。
【沼朝平成31年3月6日(水)号記事】
2019年2月24日日曜日
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