2018年4月15日日曜日

岡宮の大本山光長寺貫首に 妙泉寺住職の原井日鳳師が就任




岡宮の大本山光長寺貫首に
妙泉寺住職の原井日鳳師が就任
 岡宮の大本山光長寺の新貫首(かんじゅ)に青野山妙泉寺(青野)の原井日鳳(前慈鳳)住職が就任。四日、晋山式が行われた。原井貫首は光長寺第七十九世。就任は二月十六日付で、任期五年。自坊の住職を兼務する。


蘇生をテーマに
門戸開き人々の心に仏教を
 光長寺、山号は徳永山。京都・本能寺などと並び法華宗(本門流)四大本山の一つ。『光長寺教えと素の歩み』(光長寺発行)によれば、「当山は宗祖日蓮大聖人の御下命により本門の道場として開かれたので、日蓮大聖人を開祖、日春日法両聖人(注・日蓮聖人の弟子)を開基同時二祖と仰ぎ、建治二年(一二七六年)を草創の年とする」とあり、鎌倉時代の創建から今年で七百四十二年になる。
 辻之坊、南之坊、東之坊、西之坊、山本坊の塔頭(たっちゅう)がある。
 新貫首に就任した原井師は昭和十九年生まれ。73歳。
 沼津東高から早稲田大学第一商学部を卒業し、船舶会社に就職。貿易関係の仕事に従事して輸出事業に携わり、二年程勤めたが、仕事上の悩みや、跡取りの兄が教職に就いていて、寺の後継を勧められたことから帰郷。四十五年に得度して修行に入った。
 それからの原井師は苦難の連続だったという。得度から二年、宗門の学林を終えた頃と重なって妙泉寺住職だった父親の日慈師が亡くなり住職を継ぐ(第三十三世)と、以後、四十九年の七夕豪雨で墓地が崩れ、境内すぐ裏手を新幹線が走り、その影響で本堂が傾くなど、いずれも再建に腐心した。
 サラリーマン時代を振り返り、原井師は「その後、バブルが弾け、一緒に働いていた人達は、いろいろな道をたどったようだが、民間勤務を経験したことはマイナスではなかったと思う」と話す。
 本堂再建を手掛けたのは三十代半ば過ぎ。「若くてできるのか」と懐疑的な見方もあったようだが、やり遂げた。
 その後、四大本山合わせて五百の末寺を持つ法華宗で実務のトップである宗務総長などを経験。宗務院本庁会館の移転新築を手掛けるなど、宗門業務に東奔西走の毎日だったという。
 当時については、「宗門のことについては一生懸命に取り組んだが、それだけに家庭には迷惑をかけ、胸が痛む」と語る。
 私人の立場では、郷土の歴史や文化に目を向け、緑と歴史を守ろう会を主宰。妙泉寺に資料館を設け、郷土関係の資料を所蔵しながら、浮島沼の治水に半生を傾けた増田平四郎翁の顕彰などに努めている。
 祖父の日禧上人も大本山貫首を務めた。貫首就任に当たっては、今の時代は、なかなか仏への思いをしてもらえない、と指摘。門戸を開いて一般との交流を進めながら、「蘇生」をテーマに、「人々の心を蘇らせたい」思いでいる。
 「人々の心が蘇り、この自然を子孫が守っていけるようにしたい。大本山は歴史ある寺。しかし、その歴史に胡坐(あぐら)をかかず、人の心の中に仏教をなじませていけることができれは」との決意でいる。
【沼朝平成30415()号】